退職した喪失感を念仏宗に救われて

50年仕事をしました。長いようで短いものでした。父が興した会社を兄と2人で発展させました。兄を憎んだり、兄嫁を呪ったり、こんな会社を作った父を恨んだりしましたが、家族のためだ、今更ほかに何もできないと諦めた気持ちで働いてきました。さぼることも、手を抜く事もなく真面目に働いてきました、しかし、退職してから気付いたのです、そんな気持ちで働いたことがどれほどもったいない事だったのかが。もっと楽しさを見つければよかった。もっと兄の気持ちに寄り添えばよかった。兄嫁だって発展を誰より望んでのことだったはずなのに、なぜそれを理解できなかったのかと。悔いても遅し。私の居場所はありません。そんな時、念仏宗のお寺に案内される機会があり、興味本意で行って見ました。その圧倒的な完璧さ。静けさ。読経。私の悩みや悔いなど小さいのだ。むしろ残された時間こそが自分の人生なのだ。そんな風に感じなおし、お釈迦様の教えを学びたくなりました。念仏宗の建物の中にいたら、仏教と言う世界観の偉大さを感じずにいられませんでした。たまたま誘われて行った一日でしたが、50年への悔いが小さくなった特別な体験でした。

依存心を振り払いたくて念仏宗に

執着心が強い人と強くない人の違いがわかりません、いえ、どうして私の執着心はこれほどまで強いのか、それがずっと悩みでした。苦しみでした。お金、友達、洋服や食べる物。自己満足こそが幸せなんだから、と自分に言い聞かせ、したいライフスタイルをキープしていました。無理をすることこそが美意識の快楽でした。それが、数年前、大病をしました。それをきっかけに、表面的な執着心、物欲がとても邪魔なものに思えてきたのです。自分でも持て余すほどの見栄、物欲。自己顕示欲。もちろんそれらはエネルギーにもなります。到達するための努力も惜しみません。でも疲れちゃったのです。そんな時、友人を介して念仏宗知りました。心がシンプルになりました。お釈迦様の言葉に触れると、魂からの頷きが続きます。念仏宗のお寺にいると、その圧倒的な宗教観に包まれているような安堵感があります。手放せて行く感覚が、わかるのです。執着も物欲も、顕示欲もです。